ハンナ・バーベラ! ゆかいな仲間となかよくけんかした.3

(前回続き)

日本で放映された、
無数のハンナ・バーベラ・プロダクションの手になる作品のうち、
筆者の思い出に色濃く残っているものを
いくつか挙げてみたい。

 「チキチキマシン猛レース」
 「スカイキッド ブラック魔王」
 「ペネロッピー絶体絶命」

この三作は互いに関連していて、
「スカイキッド」と「ペネロッピー」は、
「チキチキマシン」のいわゆるスピンオフ作品となっている。
もっとも、面白さにかけては、
チキチキマシン~が大きく抜きん出ているといっていい。
筆者あたりの世代にあっては、
「チキチキマシン」の登場車両名(但し日本名)を
いまだにすべて諳んじることのできる人が少なくない。

日本の「タイムボカンシリーズ」、
あるいはザ・ドリフターズのコントにまでも、
このチキチキマシン~は、
何かの影響を与えてはいないだろうか。

 「スーパースリー」
 「ドラドラ子猫とチャカチャカ娘」

この二作については、好んで観はしたものの、
何かのひっかかりを筆者は大に小に感じていた。
どちらも主人公達はミュージシャンという本職をもっており、
事件解決のあと、彼らはまじめに職場に戻ってしまう。
そのあたりの描写に、
おそらくは若干の蛇足を感じていたからにちがいない。
パラレルに生きる人生というものを
われわれはどこかで愛しきれずにいる。

 「宇宙怪人ゴースト」
 「大魔王シャザーン」

日本ではこれらの作品に出てくるような、
無敵かつどこか便利で単純なヒーローは、
容易にヒーロー足りえない。
(漫画やアニメの段階にあっての
スーパーマンやスパイダーマンなどもこれに類する)
ゆえに当然、幼い筆者にあっても、
これらには濃厚に異文化が感じられた。

似たような万能の存在は、日本ではむしろ
「ドラえもん」や「ハクション大魔王」、
あるいはさまざまな「魔女っ子」たちのように、
その多くが子供たちの等身大の友人として登場する。
その行動はきわめて人間っぽく、
失敗や挫折も数多い。

父なる神を天に仰ぐ文化と、
八百万の神とともに地べたにある文化の違いとこじつけてみたいが
大げさであろうか。
(続く)





ハンナ・バーベラ! ゆかいな仲間となかよくけんかした.2

(前回続き)

筆者どもがその子供時代に楽しんでいた、
アメリカ製テレビアニメの多くに、

実はふたりの人物が深くかかわっている。

ウィリアム・ハンナ(William Hanna)
ジョセフ・バーベラ(Joseph Barbera)

である。

二人はMGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)に在った時代、
まことに不朽といっていい名作を生んだ。

「トムとジェリー」(内、ハンナ・バーベラ第一期と呼ばれる諸作品)
である。

その発表期間、
1940年から58年にかけてのこと。

その出来を想えば、古さが信じがたい。

なお、この「トムとジェリー」と、
特撮映画の「スター・ウォーズシリーズ」ほど、
筆者にアメリカ文化への畏敬を感じさせる存在というのはほかにない。

ところがその後、
MGM側に事情があって、
二人は独立を余儀なくされた。

これにより、
ハンナ・バーベラ・プロダクション(Hanna-Barbera Productions)
が誕生する。

この「ハンナ・バーベラ」こそが、
まことに数多くの魅力的な作品をもって、
日本のテレビ画面を長きにわたって彩るのである。

ちなみに、
日本初のテレビアニメ(シリーズ)作品といえば、
誰もが知っている。

「鉄腕アトム」である。

放映は1963年に始まっている。
東京オリンピック開催の前年にあたっている。

しかしながら、
実はその数年前から、ハンナ・バーベラ作品を中心に、
アメリカ製アニメは
日本のブラウン管(液晶画面ではない。ブラウン管である)を
大いに賑わしていた。

そのため、
日本の視聴者は――アトムが初めてなのではない。

実際にはアトムが始まる前から、すでにテレビアニメというものを
ある程度楽しんでいたため、
アトムはそれほどのセンセーショナルを
人びとには及ぼさなかったはずなのだが、

このことも、やや忘れられがちな事実であるかもしれない。

ちなみに、楽しませるだけでなく、
ある作品など、
日本語に対して、いまもたびたび使われるある下卑た慣用語を
加えるなどしているが、

品がよくないのでここでは触れずにおきたい。
(続く)





ハンナ・バーベラ! ゆかいな仲間となかよくけんかした.1

筆者どもの世代の幸福は、
その子供時代、

子供に向けたさまざまな市場が、
いわば大爆発した、というところにもある。

それは、タイミングの所産でもあった。

戦後も四半世紀に及ぶ頃となると、
日本のあらゆる生産に、余剰の兆しが見えはじめた。

余剰とは、
ここでは、生活必需産品における市場需要の飽和と、
それにともなう
非生活必需品への生産活動の移動をいう。

あるいは新たな市場開拓をいう。

いや、
そう面倒な説明を垂れなくともよい。

要するに、
高貴なる「生産」が、
下品(?)な、遊び目的や子供相手の仕事も始めたということで、

一方の市場も、
大いにそのことを歓迎した。

そのため、たとえば筆者の子供時代、
街のデパートというのは、

大概、ワンフロアがいわば「こどもの国」となっていた。

こどもの国のあらましは、
こうである。

おもちゃ売り場、
文房具売り場、
さらには、
児童書をどっさりと並べた書店、

これらがそこにはすし詰めに詰め込まれているのである。

加えて、通常、
デパートの最上階か屋上のあたりには、

お子様ランチとソフトクリームを出す食堂と、
遊具・乗り物を満載した「遊園地」も置かれていた。

子供が喜ぶペットコーナーも隣接するなどした。

要は、
当時、多くの百貨店にあっては、
そのツーフロアが、
ほぼまるごと、
子供のための世界であったといっていい。

そこで、
筆者が育ったような地方の中小の街へ行くと、
デパートは大概、
5階建て程度で建てられている。

その程度の中での、ツーフロアなのである。

しかも、
子供服売り場と、
子供における需要の度合いがおそらくは今よりも格段に高かった
スポーツ用品売り場は、
それらとはまたさらに、別にあった。

つまりは、
振り返れば驚くべきことながら、
これらの店々にあっては、全売り場の半分近くが、
こぞって、
よい子たちの来店来館を待っていたことになる。

そんな時代であるから、
無論、当時はメディアも子供たちを大いに喜ばせようとしている。

「東映まんがまつり」
「東宝チャンピオンまつり」

という、
ふたつの子供向け映画イベントに接した経験のない子供は、
とりわけ都市部の男子児童にあっては、
まずまず存在しない。

テレビにあっては、
以前にもこの稿で語っている。

夕方4時台、5時台、6時台、7時台と、
子供向けテレビ漫画と特撮ヒーロー番組が、
ひきもきらずに続く毎日であった。

そこで、
このうち、テレビ漫画――つまりテレビアニメについて、
忘れてはならないあることを
筆者は語っておきたいのである。

これはまことに忘れられがちなことであるが、
昭和40、50年代に子供時代をすごした筆者どもにあっては、

親しんだテレビアニメは、
日本製のものばかりではなかったのである。

実は、
あなどりがたい量のアメリカ製アニメを
当時の子供たちはテレビで楽しんでいた。

日本のアニメとは、様々な点で違いのあるそれらと、
日本の作品とを見比べながら、

われわれは、
自らの内なる「文化」を
おそらくは大いに豊かなものとしている。
(続く)





このごろのこと 「サイド7に暮らす夢」 4月24日(火)

東京のお台場に、先日、
「ガンダムフロント東京」

と、いうものが出来たのだそうである。

機動戦士ガンダムにおける、
テーマパークのようなものらしい。

筆者はおそらく行かないが、
とりあえず大いに賑わうことを祈っておきたい。

ところで、
もしも筆者が、
予算に限りがない――という夢の条件をもって、
ガンダムのテーマパークをこしらえるとしたら、

やってみたいことがある。

ドーム・スタジアム級の
巨大な閉鎖空間を利用し、

建築建造技術
および映像技術を駆使、

スペースコロニーの内部を再現してみたいのである。

どこかのサイドにおける一バンチ
(言葉がマニアに過ぎるが)
に暮らしているかのような景観をぜひつくりあげてみたい。

すなわち、
そこではわれわれは、シリンダーの内側のような空間に存在する。

遠い景色を眺めたとき、
そこに地平線はなく、

逆にせりあがっていく大地が見えるのである。

さらに見上げると、
ほどなく大地は途切れ、

コロニーの巨大な採光部が星のクリーク(運河)となって頭上を横切る。

それが途切れると、また大地が現われ、
張り付く家々の外壁ではなく、
屋根が見えてくるといったかたちである。

ちなみに、
こうした景観、あるいは映像、

べつに筆者が夢見るような巨大なものをしつらえなくとも、
ちょっとした程度のものであれば、

プラネタリウムの投影ドーム、
あるいは全天周型映像施設で実現することは可能なのではないか。

「ガンダムフロント東京」にも、
直径16メートルほどのドーム式映写施設があるそうだが、

そこではこれから何を映し出す予定でいるのだろうか。





このごろのこと 「ヒーロー去ってまた還らず」 4月17日(火)

高校時代、筆者は時折、
黒い詰襟の学生服の下に真っ赤なシャツを着て、
登校した。

ある芸能人を意識していたのである。

沖田浩之。

筆者が高校へ進んだ年の3月まで、
彼の姿は、
「3年B組金八先生」の第二シリーズの画面に毎週登場していた。

筆者は、
劇中、沖田浩之が演じた「松浦悟」と同じ年度を
同じ中学三年生としてすごしている。

「金八先生」の第二シリーズは、
1980年の10月に始まり、翌81年3月に終了している。

このちょうど一年前、
第一シリーズが同様の期間にわたって放映され、
そこからあの「たのきんトリオ」が生まれた。

田原俊彦、近藤真彦、野村義男の三人である。

沖田浩之が金八先生・第二シリーズの画面の中、
赤いシャツを着てツッパっていた頃、
「たのきん」は
トップスターへの階段を一足飛びに駆け上がっていたが、

沖田浩之はそれを追う存在として意識されていた。

金八学校を卒業した先の進路として、
輝かしいヒーローへの道が、
彼の前にはウェディング・アイルのごとく用意されていた。

現に沖田浩之は、その後ポップ・アイドルのひとりとなって、
歌を何曲かヒットさせる。

甘く端正な顔立ちをもって、
テレビの歌謡番組をにぎわすひとりとなった。

また同時に、彼は、
「金八~」への出演を終えたあと、

彼自ら選んだ(であろう)もうひとつの進路へ踏み出してもいる。

大学である。

青山学院大学経済学部経済学科。

都会のインテリジェンスが風にのって薫るようなその名を
日本中の十代が、
このとき知ることとなった。

先月(3月)、TBSが、
沖田浩之が出演した「3年B組金八先生」の第二シリーズを
不意に再放送してくれた。

沖田浩之は1999年の春、
突然自ら命を絶ったが、

その月というのが3月。その日が27日である。

放映はこの27日にもあって、

画面の中には、
真っ赤なシャツを学ランの下にまとった松浦悟――
わが沖田浩之の元気な姿も
もちろんあった。





来週より再開します

「僕たちはルネサンスを見てきた」は、来週17日(火)より再開いたします。


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同じ筆者の他のサイト

「いつか君をつれていきたいこの場所」

「傷ついた、でも自由な、やせた黄色い猫」

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「ふぞろい」と「北の国から」 テレビドラマ至高の三年間.番外編2

「北の国から」の放映が終了して3ヶ月後の
1982年の6月、

筆者は、
北海道富良野市・麓郷にある
このドラマのロケ地を訪問している。

なお当時、筆者は16歳。

車を運転できないため、
交通不便な当地には容易に近づき難い。

そのため、ひとに頼んで、
ハンドルを握ってもらい、

筆者の方は助手席に尻をすえての長旅となった。

ところでなぜ、
こんな物好きなことを考えたのかというと、

この時、筆者は、
この「北の国から」がその後、

日本の映像史において、
まさに燦然と輝くほどのものとなり、

その撮影地が雑踏ひきもきらない一大観光地になることなど、
露ほども想像していないのである。

よって、五郎や純、蛍が当初暮らしたあばら家や、
丸太小屋は、

「早くこれを見ておかなければ、取り壊されてしまう――」

すなわち、
この地上からほどなく消え失せるものとばかり、
思い込んでいた。

(もっとも、あばら家の方は確かにそののち少しして
消えたのではなかったか)

さて、
延々と車にゆられ、

いよいよ現地に着くと、
周辺では、なんと、

重機が数台、土を砕いて石や岩を掘り、新たな畑を拓いている。

黄色い土煙がもうもうと空に舞っていて、
その荒々しい様子に閉口しながらも、

どこか、
その風景にあっては、
かつての北海道開拓の残光を見るような気がしないでもなかった。

壮観といえば実に壮観で、
同行者とともに、しばらくの間、その作業に見とれた。

人に道を聞き、

森、というよりも、
藪に近い緑の中を進んでいくと、

丸太小屋ではなく、
まずは「あばら家」の方が、そこに建っていた。

黒板五郎一家、最初の奮闘の舞台である。

このとき、
述べたようにドラマの放映は終了したばかりだったが、

実際の撮影の方は、
当然ながら、そのはるか以前に終わっている。

そのためか、あばら家の内部は大いに荒れており、
要はすっかり、廃屋の様相であった。

テーブルクロスがあった。

テレビの画面で幾度か見かけたような気もする
ビニール製のものが、ちゃぶ台の上にかけられている。

風雨の侵入があるのか、
一面にびっしりと、
灰色の土汚れがこびりついていた。

ところで、筆者が、
11歳くらいの少年であった頃、

よく、赤い「JPS」の帽子を頭に被っていた。

JPS――「John Player Special」のことである。
タバコのブランド。

これとまったく同じ帽子を
「北の国から」の劇中、わが純君もたびたび被っていた。

もちろん「赤」である。

そのため筆者は、
家族から、

「この純君という少年は、
ちょっと前までのあなたととてもよく似ている」

と、当時、
言われるなどした。

これを受けて、当人もまた、

「帽子だけでなく、確かに目もとあたりなども・・・」

ずいぶん似ているな、と、
自らの古い写真を見ながら、そう思ったものである。

しかしながら、
その後も年月は幾重にも重なり、

いまや互いに40代のきざはしを踏んでいる
筆者と、
純君こと吉岡秀隆君である。

互いにまるで別々の星霜を経たためもあってか、

その顔にしても、人生にしても、
いまはまったくの別人にほかならない。

似たようなところは、探しても無論、
露ほどもない。

(「ふぞろい」と「北の国から」 テレビドラマ至高の三年間.番外編2 終わり)



----- 読者の皆様へ -----

いつも「僕たちはルネサンスを見てきた」をご覧いただき、
ありがとうございます。
当サイトは来週より春休みをいただきます。
再開は4月中旬頃を予定しております。
またお会いしましょう!





「ふぞろい」と「北の国から」 テレビドラマ至高の三年間.番外編1

「ふぞろいの林檎たち」も、「北の国から」も、
揃って、

その背後を飾る音楽に秀でた作品だったといっていい。

このうち、
「ふぞろい~」の「サザン」にあっては、
もはや語りつくされている。

彼らの助走期における数々の名曲が、
もしもこのテレビドラマに採り上げられなかったとすれば、

日本のポップミュージックの歴史は、
多少ながら変わっている。

偉大なサザンオールスターズのサクセスと
その音楽的展開は、

彼らのデビュー後、少なくとも十数年間余りにわたって、

いま、われわれが知るものとは
大いに違った経過を辿るものとなっていたはずである。

一方の「北の国から」の場合も、
この作品のためにつくられたその主題歌は、

作曲者でもある歌手、さだまさしの
もっとも世に知られる曲のひとつとなった。

また、
もしかすると主題歌以上に作品風景を美しく彩っている
劇中音楽の数々も、
(純のテーマ、蛍のテーマなど様々ある)

さだまさし、生涯の傑作といってしまっていい。

またさらに、
さだによるオリジナル作品以外にも、

「北の国から」にあっては、様々な劇中歌、挿入曲が、
実に多彩に引用されている。

その中で、
ドラマ世界とのシンフォニーにもっともすぐれていた
ものといえば、

高中正義、
「虹伝説」のうちの一曲、

「PROLOGUE」のほかないものと、
筆者はいつも思っている。

多分、多くの人が、
これに賛成してくれるはずである。

(「ふぞろい」と「北の国から」 テレビドラマ至高の三年間.番外編1 終わり)





「ふぞろい」と「北の国から」 テレビドラマ至高の三年間.5

(前回続き)

「北の国から」は、
その放映終了後、

ロケが行われた富良野に、
大量の観光客を呼び寄せるという経済効果を
もたらしている。

まことに救いの乏しい、
陰惨な物語であるにもかかわらずである。

その大きな理由として、

実に面白いことながら、
(あえて念を押すが、この「第一作シリーズ」にあっては――)
視聴者の脳裏には、

この物語の暗さが届いていない。

代わりに届いているのは、

青空のもとひろがる
美しい畑の景観であったり、

純白の雪景色であったり、

それらを駆ける可愛らしい
小動物の姿であったり、

いわゆる絵葉書の風景こそが、
巷のリビングには大量に届いてしまっている。

このことの原因――となると、
探ればまことにあきらかで、

それは、
このドラマを世に送った
「80年代のフジテレビ」
と、いう特殊なフィルターにあったといっていい。

当時、フジテレビは、
消費の時代における思想的な先行者、
すなわちイメージリーダーとして、

その立場を謳歌しており、

そのため、
彼らによる「北の国から」の映像は、
つねに、いつも明るかった。

ゆえに、
生産の時代が残した農村における重い桎梏

――端的には嫁不足・若者不足、農政の矛盾等――を

倉本聰がどれだけしつこく脚本に篆刻し、
描いても、

そこにはすぐさま田園リゾートのパステルな景色ばかりが
上描きされていくのである。

加えて、
視聴者もまた、夢見がちだった。

そうしたリゾートに心を向かわせるにあっては、
歯を黄色くした冴えない農家の長男ではなく、

ホテルのドアマンこそが、
さわやかに迎えてくれるべきことを
彼・彼女らは望んでいた。

すなわち、
ラベンダーの咲き競う畑を眺めながら、
甘いソフトクリームを舐めるべき楽しい場所こそが、

純や蛍の暮らす富良野――ということに、
いつの間にかなってしまっている。

壮観ではないか。

生産の時代の終焉と、
消費の時代の幕開けとが、

「北の国から」
というテレビドラマの中で、

抜き差しならない葛藤を繰り広げていることについて、

われわれはもう一度刮目の上、
確認をしておくべきである。

(「ふぞろい」と「北の国から」 テレビドラマ至高の三年間 終わり)





「ふぞろい」と「北の国から」 テレビドラマ至高の三年間.4

(前回続き)

前回、「ふぞろいの林檎たち」について、

過去たる生産の時代を清算するものとなっている――と、
述べた。

この点、
「北の国から」にあっては、さらにその性格がつよい。

田中邦衛演じる黒板五郎以下、
彼の息子、純、
娘、蛍は、

「生産の時代」に起きた大小のことどもを
すべて東京へ置き去るようにして、

80年代の幕開けとともに、
ラベンダーの薫る北海道・富良野へ移住して来ている。

そのため、
このドラマは、

本来、
美しい北海道の田園風景を舞台にした、
絵葉書のようにほのぼのとした作品になっても良かった筈である。

なにぶん80年代は、
めでたきハーヴェストの時代だった。

日本が生産の時代を邁進、驀進して得たその果実を
都会育ちの純、蛍が、

自然あふれる田舎の風景の中、

屈託もなくもぎ取り、
齧りとる。

ロハスで、ウッディで、リゾートな、
そんなドラマがつくられてもよかったはずである。

しかしながら、
この作品の脚本を書いた倉本聰は、

あくまで生産の時代の作家であった。

生産の時代にあっては、
北海道は、まことに陰鬱な場所だったのである。

たとえば、
道東・網走には風も凍りつく雪の番外地が存在し、
そこに置かれた刑務所では、
時代劇さながらに、牢名主が幅を利かせている。
(無論フィクションである)

炭鉱閉鎖と北洋漁業の衰退が、
大地に暗い影を落としている。

農村からは若者が先をあらそって逃げ出そうとしており、

田舎にわざわざ戻ってくる者といえば、
黄色いハンカチに希望をつなぐ、わけありの中年男くらいである。

場末の酒場を覗くと、
人生疲れした女将が肌荒れした手をストーブにかざしつつ、
深くため息をついている。

いつ訪れるとも知れぬ客を待ちながら、
固い干物の身をひたすらにむしっている――といったあたりが、

イメージの上でも、
あるいは実際上も、

かつての――生産の時代の――北海道の姿であった。

ゆえに倉本聰は、
「北の国から」を

「ムーミン」にも「ハイジ」にも、
あるいは「トトロ」にもしなかったのである。

しなかった、というよりも、
より正確には、彼にはそれができなかったというべきで、

そのことは、
倉本聰というこの偉大な創作家における、
ある限界の存在をも意味している。

もっとも、
この作品の「スタッフ」の方は、倉本とはやや違っていた。

なにしろ彼らは、
あのフジテレビのスタッフなのである。

正確には、
「80年代のフジテレビ」――と、括弧でくくらなければならない。

「北の国から」の放映開始と同じ年、

一方では「オレたちひょうきん族」をスタートさせている、
いわば消費の時代における象徴的な集団に、
彼らは、
属していた人達であった。
(続く)





「ふぞろい」と「北の国から」 テレビドラマ至高の三年間.3

(前回続き)

山田太一という作家のテーマは、
人間の「個」に尽きている。

ここでは個性――ではなく、
あえて、
さらに始原的な意味での
「個」と、したい。

人間は、その「個」を持ち出せば、
互いにふぞろいである。

他とはなかなか間尺が合わない。
人の個は、
まことにそれぞれがふぞろいなのである。

そうした本来はふぞろいな個が、
世の中にあっては、
社会の平和と前進、発展のために、

いわば一律とならなければならない。

角(カド)を削り落とされ、
凹みにパテ盛りをほどこされて、

おのおの、
規格一律たる部品となるのである。

そのうえで人びとは、
家族、学校、会社、といったそれぞれのパッケージに
すきまなくおさまっていこうとするが、

山田太一は、そこに、
われわれの社会の悲しみを見るのである。

すなわち、

家族とは、本来、
家族たるべき規格一律たる部品によってかたちづくられるべき
ものなのであろうか?

と、山田太一は問う。

学校はどうだろうか?

会社はどうか?

社会そのものは?

同じ「山田」を号(?)とする山田洋次は、
映画人らしく(本稿初回を参照)、
そうした問いへの答えを
社会での居場所を捨てた車 寅次郎という存在に託して、
風に吹かれるままとするが、

山田太一は、テレビの人である。
もう少し粘り強い。

「個」を捨てきれぬ個々たる人間像を
社会との相克の中に描くことにより、

彼は、
重箱にせまい仕切りを入れたように息苦しい
われわれの社会の姿をあぶり出すのである。

併せて、
「個」の居場所が今よりも多少は残る
ゆるやかな世の中のかたちを

未来への選択肢として、
われわれの前に提示しつづけている。

そんな山田太一作品にあって、
「ふぞろいの林檎たち」がとりわけ意味の大きい理由は、
ひとつに尽きる。

タイミングである。

「ふぞろい~」は、
われわれの社会がその全力をもって個の一律化を
推進しつづけた、
生産の時代が終わりを迎え、

代わって消費が経済を回すエンジンとして、
轟々と回転数を増しはじめたその時期に
発表されているのである。

そうした意味で、
この作品は、
過去たる生産の時代を清算するものとなっている。

また、80年代前半という時点においての
未来へのエールにもなっている。

スローガンはこうである。

 古い時代は終わった。
 消費の時代においては、
 時代は「個」の時代たれ。

そのとおりになったであろうか。
(続く)





「ふぞろい」と「北の国から」 テレビドラマ至高の三年間.2

(前回続き)

「ふぞろいの林檎たち」の放映は、
1983年の5月に始まっている。

東京ディズニーランドが開園した年である。

このさらに3年ののち、
「男女7人夏物語」というドラマが始まる。

昨今はこの「男女7人~」こそが、
いわゆるトレンディ・ドラマの嚆矢であったと言われるが、

「現場」に居合わせた筆者は、
そうは感じていなかった。

都会に暮らす若者が、
恋や友情に悩みつつ群像劇を演ずる一個のスタイルを
確立させたものとして、

以降の野島伸司脚本作品も、
遊川和彦脚本作品のうちのいくつかも、

要は80年代後半から90年代前半あたりにおける
若者の生活を主題としたテレビドラマについては、
いずれも、
根は「ふぞろい~」にあったように認識していた。

もっとも、以上は、
トレンディ・ドラマというものをどう規定するかによって、
判断の異なる話ではある。

「ふぞろいの林檎たち」は、
その脚本を山田太一がつづっている。

世間の多くの親や、
あるいは世間そのものが、

若者の成長にあってもっとも望ましいとする大人へのコースに
乗り切れなかった若者達を描いている。

もっとも、
面白いことに、この若者達は、

三流大学の生徒――と、いうその境遇に苦悩しながらも、
実質は、祝福のもとにあるといっていい。

彼らはいずれもが、豊かな時代の繭にくるまれるように
育ってきており、

つまりは、手厚く栽培された「林檎」である。

ところが、
この林檎たちは、

周囲の手違いか、
本人たちの手抜かりか、

おのおのが、実社会における「商品」としては、
わずかづつの過不足をかかえてしまっている。
(不足ではなく過不足である。なので彼らは「ふぞろい」なのである)

そのため、
いよいよ出荷を目前にして、
優良品を選別する網からは漏れかかっており、

そのことが耐えがたい屈託となって、
彼らを焦燥させている。

とはいえ、
たとえその望ましい網の目からは漏れたとしても、
彼らをひろってくれる場所というのは、
まだほかにもあるのである。

しかしながら、
繰り返すが「手厚く」はぐくまれてきた林檎たちにとって、
世間の品評から一旦でも漏れ、
あらためて掬われてしまうことは、

屈辱であり、
人生における修復しがたい瑕疵であるにほかならない。

林檎たちは、
自らが間もなく取り返しのつかぬ疵(きず)物として
市場に並ぶであろうことに悩み、
悲嘆に暮れるが、

実のところ、その疵は、
きわめて些細なものであるにすぎないのである。

なぜならば、
この林檎たちは、親の金で大学に通っており、
飢えを知らず、
今後も飢えを知らされる予定がない。

いわば林檎たちの悩みは、
人生における悩みといえるほどの悩みでもないが、

こうしたまことにくだらぬ苦悩というものが、
ことさらに重い苦悩として日本社会に出現していることについて、

山田太一は、
報道カメラが世相をするどく切り取るように、
克明かつ鮮明に、ルポルタージュしている。

となれば、
やはり「ふぞろい~」は、トレンディである。

輝かしいトレンディ・ドラマの嚆矢であるといっていい。

林檎たちのかかえる羽毛のように軽く、
なおかつ、
彼ら自身にとっては身が潰れるほどに重い悩みというのは、

「クリスマスを恋人と一緒に過ごせない」

と、いう事態に接した場合の80年代当時の若者達の苦悩と、
実のところ、
さほどその意味合いに違いがないのである。

すなわち、
83年からの放映開始ということで、
世間にやや遅ればせながらではあるが、

わが「ふぞろいの林檎たち」は、

テレビドラマという舞台においての
80年代の幕をひらいた作品といっていい。
(続く)





「ふぞろい」と「北の国から」 テレビドラマ至高の三年間.1

実写映画とテレビドラマは、
芸術的創作物として、ほぼ同じフォーマットの上でつくられている。

かたちは単純である。

シナリオに沿って人が演じ、
それをカメラが捉えて、動画映像に写しとるのである。

民放テレビ局の場合、
ドラマはCMによる寸断をうける。

その点、
演出に若干映画とは違う工夫が要求されるが、

NHKの番組ともなれば、そうした問題も無い。

映画とテレビドラマは、
いわば同じものであると規定してよく、

現に、数多くの俳優がどちらにも出てくるし、
スタッフ、クリエイターの交流にも実質として垣根が無い。

しかし、である。

やや厳密には、
両者は、その「役目」といったものが違うかもしれない。

映画にはない使命のようなものが、
おそらくテレビドラマにはあるのである。

それは、
言うなれば「時代」である。

映画に比べ、
テレビドラマには、つねに、
より時代に寄り添っている必要があり、

時代という流れの上において、
社会との伴走を避けることがゆるされない。

社会を映す鏡として、
それをひらたく人びとに指し示す責務が
テレビドラマにあっては
きわめて重く、

一方、
映画は、ある時期以降、
それをテレビドラマに専ら背負わせることによって、

いわば気楽で自由な立場を手にしている。

もっと嫌味にいえば、
映画は、
社会と時代に対して、かなりの程度無責任でいい。

テレビドラマの方はそうはいかず、

世相が鬱々としていれば、
ドラマもまた、塞いだ時代の記録人として、

鬱々としかめっ面を演じ続ける必要がある。

さて、
そんな、まことにしんどい立場にあるテレビドラマの
歴史において、

80年代のはじめ、
記念碑的な作品が、
相次いで二作、世に出ている。

「北の国から」と、「ふぞろいの林檎たち」である。

それぞれ、
1981年および1983年に放映開始。

それぞれ、
82年および83年に終了。

この二作が放映されていた三年間をもってして、
日本のテレビドラマは、
ひとつの画期をきわめたといっていい。
(続く)





このごろのこと 「シュペリエルな50代」 1月24日(火)

ミュージシャンのEPOさんといえば、
名前は昔からよく知っていながら、

曲はあまりよく知らない。

そのうえで、
やや失礼な感想をいえば、

音楽家としての彼女には、
どことなく奇妙な影が差している。

そこで、
その影のもとをたどってみると、

5歳年上の竹内まりやがそこに立っているような
勝手なイメージを
筆者は以前からひそかに抱いている。

理由はある。

竹内まりやとEPOの間には、
その人生と創造においての重要な存在として、

あの山下達郎が絡んでいる。

さて、
このEPOさんだが、

時々、
その存在を忘れかけた頃に、
比類の無い才能を輝かせてくれる。

要は、
「あの曲は彼女だったか」

と、いきなり唐突に驚かせてくれるのである。

一昨年、
2010年のことである。

「Gift ~あなたはマドンナ~」
というCMソングがテレビから流れた。

耳に入った瞬間、
作曲家のおそるべき力量が感じられ、
圧倒されたが、

翌年、これが、
ある三十代の歌手のシングル作品として
リリースされたので確認してみると、

曲は、わがEPO姉さんが書いているのである。

若いころ、
「太陽にPUMP!PUMP!」

という曲で、
似た驚きを筆者は体験しているが、

その後約四半世紀。

またもや彼女には、
不意の狙撃をうけてしまった印象がやまない。

1960年生まれ。

器用なアーティストでありつつ、
生き方にはやや不器用なところのみえる人。





このごろのこと 「懐かしき大晦日の顔」 1月17日(火)

日本レコード大賞の授与式を放送する年末の番組については、
たしか1983年を最後に、以降、観ていない。

そこで調べてみると、
この年の放送こそが、
あの高橋圭三アナウンサーの司会によるものとしては最終回、
最後であった。
(ちなみにこのときの大賞は細川たかし「矢切の渡し」)

故・高橋氏といえば、
かつては、まさにレコード大賞の「顔」であった。

69年から司会をされている。

記憶をたどれば、
筆者がこの番組を初めて意識して観始めたのは、
1973年(大賞・五木ひろし「夜空」)のことであったから、

つまるところ、
筆者は高橋氏仕切るところの大賞しか、
観ていないことになる。

レコード大賞といえば、
当時は大晦日の風物詩で、

NHKの紅白歌合戦とは、まさに「対」の行事であった。

日本の多くの家族が、
この日は揃って家にいて、

レコード大賞を楽しんだあと、
おせち料理をつつきながら紅白を観戦し、

最後は故・藤山一郎氏指揮するところの「蛍の光」に聴き入る。

中継が終わると、
画面は大抵、唐突に、
雪景色の中たたずむ古刹の境内――ゆく年くる年――に
切り替わり、

茶の間には除夜の鐘の音が、
ゴーンと、おごそかに響くなどした。

筆者の家の場合、
年越し蕎麦を茹でる温かな香りが、

ほぼ同じ時分、
台所から湯気とともに流れてきたものである。

ちなみにレコード大賞の高橋圭三氏ほど長期に
わたってはいないが、
当時、
紅白にも「顔」がいた。

72年から11年間、
総合司会および男性方白組司会をつとめた
山川静夫アナウンサーである。
(その後90年代にも二度総合司会をつとめる)

高橋氏にしても、
山川氏にしても、

また藤山一郎氏にしても、

その存在というのは、
ふっくらと炊かれて艶めいた白飯の味のように、

深い落ち着きと重みがありつつも、
決して、
人に飽きというものを感じさせることがなかった。





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